中国化する日本
與那覇 潤 著 文藝春秋 刊
1,575円 (税込)
本書の紹介をする前に、まずタイトルを誤解されないように説明をしておくことが必要です。本書でいう「中国化」とは、今の中華人民共和国を意味するものではありません。日本が中国の属国になったり、共産主義化するといったこととは無関係です。
著者が言いたいのは、世界の歴史を眺めてみると、国の政治のあり方には大別して2種類あり、それぞれの栄枯盛衰が歴史の流れを作っているということです。ちなみにその2種類とは、ひとつが宋の時代に中国が実現した「経済や社会を徹底的に自由化する代わりに、政治の秩序は一極集中によって維持する仕組み(機会の平等・自由競争)」であり、もうひとつは日本の江戸時代に代表される「権威と権力が分離され、人間関係のコミュニティ化による地域社会重視の封建社会」です。中国は明国の時代を除き一貫して前者のスタイルで国を統治し、日本は平家の時代や南北朝、明治新政府の初期を除いてずっと後者のスタイルを採用しています。
この視点で世界の歴史を見直してみると、私たちが何となく信じていた「歴史常識」が片端からひっくり返されていきます。たとえば源平の戦いですが、貴族化した軟弱武士の平家を無骨でピュアな硬派武士の源氏が倒したというイメージはまったくの虚構で、実際は進歩的でグローバリズムの気性に富んでいた平家を、古い体制にしがみつき改革のできない守旧派の源氏が破ったということになります。その結果、日本に導入されかけていた貨幣経済は元の物々交換による封建制に戻ってしまいます。
同様に元寇は、超大国からのグローバル化への誘いを頑強に拒み続けたヒステリックな反応となります。モンゴルは日本を征服しようとしたのではなく、自分たちの経済圏に加入を勧めたに過ぎなかったのです。元寇はそれを身の程知らずにもはねつけて大国のメンツを潰したために起きた「無用の戦争」でした。この戦いで鎌倉幕府は奇跡的に勝ちますが、貨幣経済への対応ができなかったために崩壊への道を歩みます。著者は元寇のときの頑迷な鎌倉幕府を、太平洋戦争のときの大日本帝国陸海軍になぞらえています。「進歩しない日本人」というわけです。
著者が言うには、日本は世界で一番「中国化」に抵抗した国なのだそうです。かつて遣隋使、遣唐使による交流を行い、徹底して中国を真似た政治形態を作り上げてきたのに、中国が「中国化」した宋時代からは、中国のマネをぴたりと止めてしまい、鎖国への道を歩みます。そして戦国時代を経て、江戸時代という中国化の正反対の政治体制を「今も」続けています。そうなった理由を、著者は「日本が『科挙』を導入できなかったからだ」と見ています。
著者が現代日本を「江戸時代の続き」と決めつけるのには理由があります。家、地域、農村、世襲、会社村といった日本特有のキーワードを並べると、それが日本型社会主義の特徴として大きな変化を見せていないことがわかるからです。そして多数の日本人は江戸時代的なものに郷愁を抱いているため、日本を中国化しようとすると必ず強力な反対勢力が現れます。小泉改革が途中で止まってしまったのもその一例です。
そんな日本も、いよいよ中国化が避けられなくなってきた、というのが本書の主張です。グローバル化、世界経済への組み入れ、徹底した能力主義、地域コミュニティからヒューマンネットワークへの移行など、日本人と日本社会が抵抗感を持つ改革が好むと好まざるとに関わらず、眼前に控えています。3.11はそれに対する「最後の一撃」であったと著者は言います。
多くの人の歴史観と真っ向から対立する内容の本書ですが、実は著者の個人的な考えではなく、現在の歴史学会の主流となっている考察をまとめたものにすぎないそうです。私たちの歴史感覚がいかに学問からかけ離れていたか、ということです。
「院政とは天皇が貴族を廃して貨幣経済を直接コントロールするための方便だった」「元寇はモンゴル経済圏への参加を蹴ったための無謀な戦いだった」「世界のどこでも1600年頃に作られた社会が今も続いている(北米や豪州のような移民国家は例外)」「世界の辺境であった野蛮な西欧は中国の銀経済によるインフレーションで産業資本主義を生み出した」「明治新政府は『中国化』と『西欧化』を同時に行った」「日本が外交ベタなのは脳みそが江戸時代のままだから」などなど、刺激的な主張が本書の随所で見られます。
本格的な学術書でありながらすいすいと読み進むことができますが、その理由は本書が大学の講義内容をもとに作られているから。「なんちゃって陽明学」「ええじゃないか政権交代」といった著者独自の命名も楽しめます。錆び付いた固定観念に「喝」を入れるにはうってつけの一冊です。
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